河和(こうわ)屋敷

2016年10月13日撮影


◆別名:

水野屋敷

 

◆所在:

美浜町河和北屋敷

 

◆交通:

 

◆歴史:

河和水野氏は田原城主の戸田氏と緒川城主の水野氏に繋がる系譜である。

 

鎌倉・室町時代、三河守護の一色氏が知多半島一帯を支配していたが、文明の乱以降衰退。

知多半島は西部を大野城の佐治氏、東部を田原城の戸田氏が支配し、半島の先端の師崎は佐治氏と戸田氏が共有する形で伊勢湾から三河湾の制海権を両氏で握って支配を固めたと言われている。

 

その後、緒川城の水野氏が徐々に勢力を強め、天文年間(1532年~1555年)頃、水野信元は清洲城の織田信秀の三河侵攻に協力し、自身は知多半島制圧に乗り出した。

坂部城の久松氏には於大の方(徳川家康の生母で信元の妹。松平家から離縁されていた)を嫁がせて縁を結び、宮津城成岩城長尾城などを順に攻略。

常滑城の水野守隆(信元と先祖は同じ)には娘を嫁がせて、半島横断路を支配する。

 

さらに軍を南下させ、富貴城の戸田法雲を攻め落とした信元は、戸田守光の河和城を攻略するべく布土城を築き、弟の水野忠分を城主として戸田氏への圧力を強めていった。

 

戸田守光は本家の田原城に援軍を求めたが、本家の当主である戸田宗光は、天文16年(1547年)今川家へ人質として送られるはずの松平竹千代(後の徳川家康)を奪い取って織田信秀に引き渡したため、今川義元の怒りを買って攻め滅ぼされてしまう。

本家が滅亡して孤立無援となった守光は、信元の娘を娶って一族となり、水野氏の下に屈する事になる。

 

守光が豊臣秀吉の小田原攻めで討ち死にを遂げると、河和城は民衆の手により破却された。

この時、守光の嫡子である光康は江戸へ逃れ、大叔母にあたる於大の方の下で成長し、水野光康として河和の地へ戻って地頭となり、その後は尾張藩主徳川義直に仕えて、河和と名古屋に屋敷を構えたと言われている。

 

水野家系譜には『慶長16年(1611年)4月23日、権現様(家康)河和屋敷へ成らせられ光安母妙源共御目見』とあり、『寛永7年(1630年)2月、源敬様(尾張藩主徳川義直)河和屋敷へ御成』とも記されている。

 

その後、尾張藩主は代替わりする度に知多郡廻りが通例となり、河和屋敷に立ち寄って当主と懇談しているが、これは河和水野氏が家康以来の由緒ある家柄として認められていた証拠なのかもしれない。

 

◆現在:

河和天神社付近が城館跡と伝わるものの、宅地化されている。

北方二十谷に水野屋敷記念館が建設され、家屋の西半分が復元されている。

内部は水野家にかかわる収蔵品を展示する部屋と、一般利用できる部屋とに分かれている。


復元された水野屋敷記念館の看板


水野屋敷記念館の外観