羽豆崎(はずさき)城

2016年10月19日撮影


◆別名:

 

◆所在:

南知多町師崎明神山

 

◆交通:

 

◆歴史:

羽豆神社の由緒によると、南北朝時代の1331年~1355年頃に熱田大宮司の千秋氏によって築かれたとされる。

 

南北朝末期には、一色氏が知多郡代として半島を掌握したが、応仁の乱で細川氏に敗れ没落。

一色氏の一族にあたる大野城の佐治宗貞が幡豆崎城を支配下に収める事になった。

 

文明8年(1476年)田原城主の戸田宗光が河和城を手中にして羽豆崎に郡代を置き佐治氏と争うが、緒川城の水野信元の知多制圧の前に両氏とも水野氏との婚姻関係を結び、両氏の陣代を置く形で争いは決着した。

 

その後、佐治氏の一族である千賀重親が徳川家康の命を受けて御船奉行として入場するが、家康の関東移封に伴い重親も関東へ移る事になった。

しかし、関ヶ原の合戦を経て、再び千賀重親が羽豆崎の地を得て千賀城を築いた際、羽豆崎城は廃城となり、古木は千賀城に再利用されたと言われている。

 

千賀氏は尾張藩の船奉行として隆盛を極め、徳川吉宗の時代に新吉原が作られる時、娼家を経営した人物のほとんどは須佐村の人物で、須佐城も領地としていた千賀志摩守が後ろ盾になっていたからだとも言われている。

 

◆現在:

城の遺構は残されていない物の、羽豆神社を中心とした一帯の山林が、ウバメガシを主とした暖地性常緑樹林となっており、国指定の天然記念物として保護されている。


羽豆神社の社伝に築城の記載が残されている他、尾張徳川家の歴代藩主や宗像親王が参詣した旨も記されている。


加藤清正が名古屋城築城で石垣の石を無事に運搬できるよう、羽豆神社に奉納した矢穴石。


城址碑近くにある展望台から北側を撮影。

 

写真中央の山麓には羽豆天神山城が、やや左に見える白い建物の裏山に蜂谷城があったと言われている。