長坂(ながさか)屋敷

伊久智神社に隣接する地に屋敷はあったと伝わる。

 

2014年4月18日撮影



◆別名:

 

◆所在:

東浦町生路坂下

 

◆交通:

 

◆歴史:

生道郷は平安時代以前から塩の生産地として有名で、延喜式には『生道塩一斛六斗与調塩共進自余輸絹絲塩』と記されている。

 

長坂氏は生道郷を支配する武士であるが、塩の生産と販売の権利を有しており、室町末期には長坂弥右衛門守勝が、連歌士の里村紹巴(※1)を招いて連歌会を主催するほどの力を有し、緒川水野氏の菩提寺である乾坤院にも寄進を行っている。

 

また、対岸の地内城の城主には長坂伝十郎の名前を見る事ができる他、岡崎市にある桑子妙源寺の文書には天文元年(1532年)に小柿江(小垣江)郷の長坂与次守親が小垣江の山林を寄進したとの記録があり、妙源寺には平岩親吉や本多忠豊(本多忠勝の祖父)本多忠高(同父)などの墓と共に、長坂血槍九朗の墓も残されている。

 

長坂屋敷の長坂守勝と、小垣江の長坂守親、地内城主の長坂伝十郎、徳川家臣の長坂血槍九朗の血縁関係は定かでは無いが、長坂屋敷の長坂守勝と、小垣江の長坂守親に関しては、同時期に衣浦湾を挟んだ対岸に領地を持った上、同じ『守』の通字を持つことから、お互いが全く関係の無い人物とは思えず、長坂氏として衣浦の東西である程度の勢力を誇っていたと想像できる。

 

◆現在:

館があったとされる地は定かではなく、現在は宅地化されて遺構は残されていない。

神社から西に200m程に位置する生路小学校の字名が傍示松(※2)となっており、かつては緒川城の水野氏と宮津城の新海氏、成岩城の榎本氏などが支配する土地の境だったと思われる。

 

伊久智神社の北側には神後院が建てられており、日本で初めて白糖を製造した原田氏の菩提寺となっている。

 

(※1)里村紹巴

戦国末期の連歌士で公家や織田信長、明智光秀、島津義久、最上義光など数多くの戦国武将と交流を持った人物

(※2)傍示:

街道に立てられた国境を示す立札

原田氏の菩提寺である神後院


伊久智神社と神後院との間の路地は堀切のようになっている。