河和(こうわ)城

撮影


◆所在:

知多郡美浜町河和西谷

 

◆交通:

国道247号線を南に向かい、河和駅前の信号を西に向かう。道なりに500m程走ると左手に厚生病院が見えてくる。病院の東側の小高い丘が城跡となる。

 

◆歴史:

 室町時代に田原城を中心に勢力を誇っていた戸田氏が海を渡り、知多半島東岸を制圧するために築いたとされる城。本丸から西側に向けて4段の曲輪を設けていたとされる。

 

緒川城の水野信元が知多制圧をめざして南下し、布土城を築いて弟の水野忠分を城主とし、次第に戸田氏の勢力を圧迫してくるようになった。

 

一方、戸田氏の本拠である田原城では、松平家から今川家への人質として贈られるはずであった竹千代(後の徳川家康)を戸田康光が奪い取り織田家に寝返ったが、今川氏に滅ぼされたため、河和城主であった戸田守光は水野信元の娘を娶って一族となり、河和城を残す事を図った。

 

豊臣秀吉の小田原征伐に従った戸田守光が戦死すると、河和の住民は河和城を攻め落として城を破壊した。妻子は叔母である於大の方(水野信元の妹)を頼って江戸まで逃げ、水野姓を名乗ったと言う。

 

◆現在:

西側にあった大手口は土砂崩れで塞がれ、現在は竹藪に覆われてしまい、登ることが困難となっている。

 

東側の崖下に民家があったが、現在は空き地となり、城を訪問する時の駐車場となっている。

駐車場の脇には河和城の歴史などが記載された看板が立てられ、看板脇から本丸に上る階段が作られている。